オワリノソノ

第一章


 いつの間にか、僕の心身は“それ”にかなり根深いところまで蝕まれていた。
 “それ”はいったい何なのか、僕には分からない。
 いつ僕の中に生まれ、こうまでなってしまったのか。
 今や意識のほとんどを“それ”を抑え付けるのに割いてしまっているため、僕は深く思いを巡らせることがもうできない。
 どうして僕はこうなってしまったのだろう。
 どうしてこんな、抱いてはいけない衝動に身を呑まれてしまったのだろう。

 ……どうして僕は、人を“殺し”たいんだろう。

 ――その殺人衝動こそが、僕こと、石橋遥成(いしばし はるな)を狂わせている全ての元凶だった。



* * * * *



 夕暮れが街を照らしている頃、とっくに下校時間を過ぎた学校の図書室の隅で僕は蹲っていた。
 「……そろそろ、いいかな」
 新入生としてこの高校に入学して以来、僕は日中のほとんどをここで過ごしている。この図書室は正確に言えば旧・図書室で、その主たる役割は新しい図書室に移され、現在は物置部屋と化していた。加えて、この部屋は校舎の端にあるため、ほとんど人が訪れない。まさに、僕が例の衝動を抑え込むのにはお誂え向けの場所なのだ。
 人がいる場所では集中しづらいし、万一衝動に身を任せてしまった際は大惨事になってしまうかもしれない。その危険性を考えれば、こうした場所があることは非常にありがたい。
 ただ、この衝動は波こそあれど、僕の中に在り続けているため、危険は常に隣り合わせなことに変わりはない。最良の対処法は、僕が引き篭もっていればいいだけの話なのだろうが、それをやると今度は両親にいらぬ心配をかけてしまう。
 だから僕は学校に来てはこの場所に入り浸り、衝動の波が引いている時のみ授業に顔を出している。
 クラスメイトからはさぞ不気味に思われているだろう。だが、それでも人を“殺して”しまうよりかは断然いい。
 そういう考えのもと、今日も今日とて校舎から人気がなくなるまで待って、僕は動き出すのであった。

 「やっぱり、ここでした」
 図書室を出た僕を待ち受けていたのは、黒い髪を背中のあたりまで伸ばした女性、担任の霧ヶ峰先生だ。
 「どうしていつも、ここにいるんですか?まるで隠れてるみたいに。何か、あるんですか?まさかいじめ……とか……」
 霧ヶ峰先生の言葉は途切れ途切れだ。
 表情も困惑と不安に塗りたくられているのが一目でわかるほど濁っている。
 それもそうだ、入学初日からこんな調子の生徒を受け持ってしまったら誰でもそうなる。
 「石橋君……聞いてますか?……っ、ねえ、ハル!!」
 まして、幼い頃に面識のあった男の子が、久しぶりに再会してみればこんな有様なら尚更だろう。

 彼女――霧ヶ峰黎とは、隣近所に住んでいた幼馴染という間柄だ。
 僕の家は両親とも共働きで、彼らが不在の間、彼女にはよく世話をしてもらっていた。
 昔から先生になりたいと言って大学進学と同時に家を出た彼女だったが、まさか先生と生徒という形で再会することになるとは驚きだ。
 それ故に、彼女には幼い頃から今この時まで迷惑を掛けっぱなしになってしまったことで、僕の罪悪感も割り増しされている。
 だけど、僕はそれを止めることはできない。一歩間違えば、僕は彼女でさえも“殺して”しまうかも知れないから……。
 「……先生には関係ないでしょう」
 だから僕は冷たく突き放す。この衝動を意識しだしてからは、誰にでもそうしてきた。
 家族でも友達でも例外なく、僕は拒絶する。そうしなければ、僕は他ならぬ僕の手から彼らを守れない。
 困惑した顔で二の句が次げない状態の先生を置き去りにして、僕は足早にその場を立ち去る。
 胸が痛い。
 当たり前だろう。
 親身になって心配してくれる人に……ずっと好きだった人に、こんな仕打ちをすれば……。
 こんな僕でも、当たり前に、心が傷つくのだ。

 そうして僕は痛みと共に安堵を覚える。
 ああ、僕はまだ“人間”なんだ、と。
 人を“殺し”たくて“殺し”たくてうずうずしている狂った怪物ではない、と。



* * * * *



 この町は日が沈むと人がいなくなる。
 それほど都会でもないし、他の町がどうかなんて興味はないからそれが普通なのか異常なのかはわからないけれど、僕にとってはありがたいことだ。
 それでも町の中心部にはまだ人がいるため、僕はそれを避けて裏通りを主に選び帰路につく。都合にして約三十分ほど遠回りになってしまうが、これは仕方がない。
 そうして今日も僕は街灯の少ない暗い道を歩いていた。

 それにしても暗すぎやしないだろうか。
 もうすぐ梅雨という夏を控えた時期にしては、いくらなんでも暗すぎる。おまけに街灯も切れかかっているのか、ちかちかと点滅を繰り返していて、光も安定しない。
 僕はふと、ただならぬ雰囲気を感じて踏みとどまる。
 この先は嫌な予感がする……。
 自分がそう考えているのに気付いた時、もう既に背中は冷や汗で湿り気を帯びていて、この先から漂ってくる異様な冷気によってより一層の寒気を感じさせられた。
 その冷気をヤバいと感じつつも、理解できない引力によって惹きつけられているのかのように、すぐ手前の曲がり角へと向いた視線を逸らすことができない。
 街灯が完全にその光を消す。
 その瞬間、曲がり角の先にある影が、蠢いていたのが見えた。そしてむせ返るような臭いが鼻を衝いた。

 これは――血?

 呆然としていると、影が立ち上がった――そこで初めて、その影が人の形をしていることに気付く。背丈は同じぐらいだが、頭の上に何かが乗っているせいか自分より少しばかり高く見える。
 「……っ、誰?」
 こちらに気付いた影が声を上げる。
 ……女?
 そう思った瞬間、街灯の光が蘇った。

 一瞬、突然の光に目を閉じてしまったが、目を開けるとそこには見たことのある顔があった。
 「上坂……」
 中学時代から同じクラスの女、上坂あげは(かみさか)がそこに居た。頭の上に乗っている何かとは、お団子状にまとめられた彼女の髪だった。
 驚いたのは上坂もらしく、小さな口を丸く空けたままだ。
 「びっくりした。まさか石橋君だなんて」
 表情と文面では驚いたと言っているが、その声色はとてもそうは思えないほど落ち着いたものだった。
 いや、上坂は元々こういう奴だったな。
 常に落ち着いていたというか、抑揚がないというか……ともかく上坂は変わった少女だった。そのように記憶している。
 「……こんなところで何を?」
 この路地は建物と建物に挟まれた場所にあるため、何もない。通り道にするにしても、表通りを通った方がどこへ行くにも近道になるし、そもそもこんな常に日陰になっていて辛気臭い道を好き好んでこの道を通る者はそうそういないはずだ。
 「そういう石橋君こそ」
 上坂の大きな目が、こちらを覗いている。
 いつもは赤い縁のメガネをしているはずだが、今はしていない。そのせいか、いつもより余計に目が大きく見える。その目は真っ黒と言うよりは、ほんのり緑色を含んでいるようだ。しかしそれを綺麗だ、と思う人は少ないだろう。
 お世辞にもその緑は華やかなものではなく、むしろ貯水目的で冬場も放置されている濁ったプールのような色合いだ。
 だけど僕はその色味に感じるものがある。
 深い水底のようなその目を見ていると、吸い込まれて沈んでしまいそうな感覚に陥るのだ。
 中学時代はその感覚を忌避していたようにも思うが、今では真逆に純粋な興味を感じている。これも殺人衝動の仕業だというのだろうか。

 「……聞こえてる?おーい」
 ひらひらと僕の眼前を上坂の手が舞ったところで気がついた。
 「そんなに見つめないでよ、ヘンに緊張しちゃうじゃん。で、石橋君はこんなところで何してんの?」
 「質問に質問で返すな。僕が先に聞いたんだ」
 彼女の目に虜になっていたことを慌てて隠すかのように、冷たく問いただす。しかし上坂は困ったように眉をひそめた。  「よほど言いにくい理由が?」
 「いや、まあ……別に私はいいんだけどさ。石橋君の気分を害しちゃったら、悪いじゃん」
 どういう意味だろうか。
 「だから先に聞きたかったんだよ、石橋君がこんな裏通りを通る理由を。それで大したことないものだったら、お引取り願おうって思ってね」
 「お引取り願おうって……僕はこの道しか通りたくは……」
 「うーん、なんとなくそうだろうなぁとは思ってたよ。…………仕方ない。白状するね。私がここに居るのは、つまり、こういうこと」
 上坂は申し訳なさそうに道を開ける。そしてそれによって今まで視界を遮られていた曲がり角の先がはっきり見えた。

 「……ッ!?」

 声にならない叫びが喉を駆け抜ける。
 “それ”から目が離せない。
 率直に言うと、嫌な予感は的中していた。
 影が、上坂が蠢いていたのは、こういうことだったのだ。

 そう、そこには不気味に積み上げられた赤黒い血肉のオブジェが鎮座していた。

 「まあ、そんなワケです」
 恥ずかしそうに上坂が言う。
 何で。
 何でお前はこんなものを。
 「どう……かな?」
 何で。
 何でお前は、頬を蒸気させている。
 何でお前は、興奮している。
 「石橋君なら、わかると思うんだ」
 何で、何で……!
 「だって……」
 何でお前は!

 「人を“殺し”たいんでしょ?」

 何でお前は、知っているんだ?