オワリノソノ

最終章


 その場には先生も、あげはもいなかった。
 その代わり、見たこともないような量の人ごみで路地は覆われていた。
 焦燥感に駆られながら、人ごみを掻き分けようとする僕を、一人の警官が呼び止めた。

 ――ここからは、その警官から聞いた話だ。
 何が起こったのかというと、少女を通り魔的に襲った男たちが、その少女によって大怪我を負わされたのだという。
 少女があげはだということは言うまでもなく察することができた。
 その場を通りがかった女性によって通報を受けたというが、その女性とは先生なのだろう。だとすれば僕にここへ来るよう言った辻褄が合う。
 ……などという推測はこの時は全くできなかった。
 この時の僕は、果てようのない茫然自失に見舞われていたからである。あげはが犯してしまった禁忌が、二人で乗り越えたと思っていたあのドス黒い衝動を否応なく想起させる。
 嘘だ。
 その思いは言葉にならず、頭の中をうるさいぐらいに反響する。
 ……確かめなければならない。あげはの下へ、会いに行く必要がある。

 警官は先生から頼まれていたらしく、僕をあげはの居る警察署内の部屋に案内してくれた。
 「ハル……よかった、来てくれたんですね」
 「先生……あげは……!」
 数人の婦警が見守っているそこには、霧ヶ峰先生も居た。おそらく、海外赴任でこの町に居ない父親の代わりなのだ。心なしか先生の顔も青ざめて見えるが、見間違いではないだろう。
 「遥成」
 あげはが僕を呼ぶ。この場に居る誰もが息を止める。
 その声に初めて会話したあの日に似た響きを感じ取った。いや、あの日よりもっと後ろ暗いような感情さえ読み取れる。あの時、衝動のせいで鬱屈としたものを悉く溜め込んでいた頃よりも、もっと深く、冷たい。
 「あげは……お前……」
 「そうだよ。私が、やったの」
 虚ろな目で僕を見るあげは。その目には、涙が浮かんでいた。
 僕は何も言わず……何も言えずに彼女を抱きしめた。
 何で、何でこんなことになってしまったんだ。
 彼女の震えを感じながら、やり場のない怒りが込み上げた。



* * * * *



 事体はゆるやかに収束した。
 法の上でどのような審議があったのか、僕には窺い知れない。結果として、あげはは無罪放免となった。
 しかしそんなことはどうでもいい。
 問題は、あげはの心だった。

 ――現在時刻は15時55分、毎日僕があげはの病室を訪れる時間だ。
 「来たよ、あげは」
 病室のドアを開けると、上体だけを起こして窓の外を見ているあげはの姿が目に入る。
 「遥成……」
 嬉しそうに綻ぶ彼女の頬は、見るからにやつれてしまっている。彼女が負ったのは心の傷だが、それは自らの行いに起因するものだ。
 消えたはずの衝動の復活……。それが彼女が心を病んでしまった原因だ。
 そう、彼女は男たちを持ち歩いていたナイフで滅多刺しにしたのだ。男たちは辛くも一命を取り留めたものの、あげはが衝動のまま彼らに刃を突き立てた事実は変わらない。
 そして僕は彼女の心のケアという名目で、毎日学校帰りにこの病室に立ち寄っている。

 あげはの状態は、はっきり言ってひどい。
 問いかけても反応がない時もあるし、食事の時でさえ突然意識を失くしたかのようにぼうっとしだす始末なのだ。
 その上、僕以外の人を見ると凄まじい勢いでその首を絞めにかかるのである。
 彼女はもう、殺人衝動の自制ができない。最早面と向かって彼女と相対できるのは僕だけなのだ。

 僕がベッドの横に置かれた椅子に腰掛けると、あげはは僕を壁に押し付けるようにした後、唇を僕のそれに被せる。柔らかい感触がした刹那、それは痛みにとって代わる。噛みつかれた僕の唇からは血が滲むが、あげははそれを嬉しそうに舐めとった。
 これが僕とあげはが毎日交わす挨拶。
 この一連の行為の意味が僕には理解できない。けれどこれは彼女によると、血を見ることで彼女は自分が犯したことを忘れないようにしているらしい。
 「ねえ、遥成。今日こそいいでしょ?」
 あの事件の後入院するようになった彼女は、僕に会うたびさっきの挨拶と同時にある“お願い”をするようになった。
 しかしそれは、僕には到底叶えることのできない願いだった。

 「遥成……今日こそ私を、殺してくれる?」

 だから僕はこうして彼女の傍にいる。
 僕には、それしかできないのだ。

 「それはできないよ」と、あげはの肩を抑える。
 抵抗はないが、彼女がその願いを諦めていないことは、言葉にするまでもなく目が物語っていた。
 「やさしいね……遥成。でも無理しなくていいんだよ。こうして毎日来てくれるのも先生に頼まれたからなんでしょ?」
 「先生に頼まれたのは本当だ。だけど毎日来てるのは僕が来たいからだよ。これも何度も言っただろ?」
 「あの人も心配性だよねぇ。死にたいのか、って脅しても何度も来るし」
 「昔からああだよ。大事なものは手放そうとしないんだ」
 ボロボロになったぬいぐるみを捨てるかどうかで母親と言い争いしていたのを見たことがある。
 「馬鹿だね、あの人も」
 あげはが乾いた笑い声をあげる。その笑い声のようにすっかり褪せてしまったあげはの姿を、僕は内心直視しないようにしていた。
 今のあげはの姿を見ていると、嫌でも浮かんでしまうのだ。殺人衝動に従って人を殺し、壊れてしまった自分の姿が。

 ……そういえば、色褪せたといえば外の景色もそうだ。
 あの事件の日から、何だか町の景観がくすんで見えるのだ。さらには人々の様子までもが同じように。まるで段々と色を失くして枯れ凋んでいくかのような感じがする。
 ぼうっと、窓の外を見ていた僕を見て何かを読み取ったのか、あげははこう言った。
 「そうだね。こうして窓から見ているだけだけど、分かるよ。この世界は死んでいっている。多分、私たちのせい」
 「それはどういう意味?」

 「落ち着いて考えてみなよ、遥成。この世界に“殺人”なんて言葉、最初からあったかな?」

 突如、足元がぐらつく。
 「え……?」
 「この世界には暴力も事故もある。だけどさ、その結果に人が死んだという事実はないんだよ。
 もっと言えばね、誰も"殺意"を持たない世界なんだよ。ここは“そういう風に”できているんだ」
 次いで、視界がぼやけ出す。
 「おかしいでしょ、人を“殺し”かけているのにあっさり無罪だなんて。それはね、誰もそれを認識できていないから。誰も、人が“殺されかけた”ことに気付いていないからなんだよ。ただの怪我ぐらいにしか見てない」
 どういうことだ。
 あげはの言っていることがまるで理解できない。
 「試しに、“殺って”みなよ。私の言っていることが分かると思うよ」
 気付けば僕の手には果物ナイフが握られていた。
 「ね、だから“殺して”みてよ、私を。そして気付いて、この世界の法則に」
 僕の意識はそこで一度、途絶えた。



* * * * *



 そして僕はあげはの自宅に居た。あるものを確認するためだ。
 前に来た時には立ち入らなかった部屋でそれを見つけた。そこにあったのは、床に倒れ伏したまま腐敗した男性の死体。
 恐らくは、あげはの父親。そして恐らく、これがあげはの最初の“殺人”。
 あげはは衝動の発露と同時に父親を“殺し”てしまい、それからきっと何ヶ月も前からこの状態なのだろう。
 では何故この死体が処理していないのか。
 それはきっと、あげは自身が気付いていなかったからだろう。あげははこの世界に“殺人”はありえないのだと言った。
 ならば、“他殺体”もありえないということになる。
 あげはがこの死体に気付いていなかったのも、その法則を思えば納得できる。
 「ありえないものは無いものと同じ」だ。
 その法則をここに来るまでに確かめていた僕には、すんなり理解できた。

 多分、今頃は病室から患者が消えたと騒ぎになっているかも知れない。
 右手に握られたままの果物ナイフをその場に投げ捨てる。
 その刃には、赤黒い血が付着していた。

 「あげは……」
 やはり僕たちは、狂ってしまっていたんだね。
 殺人が怖いと言っていたあげはの真意が今なら分かる。
 「殺人という概念そのものが存在しない世界でそれを行うことは、つまりその世界から外れること」
 それは、一人ぼっちになること。
 「ずっと寂しかったんだな……」
 だからあげはは僕に殺されたかったんだ。
 人を殺せるのは、“殺人”を知る僕だけ。
 だからあげはは、僕を人殺しにさせることで仲間にしようとしたのだ。
 「望みが叶ったんだ、満足だろ?」
 涙は出ない。
 怒りも湧かない。
 寂しさも、虚しさもない。
 僕はその時から”無”だった。
 世界の法則から弾かれた存在は、何も感じないのだとその時知った。



* * * * *



 「ここに居たんですね。探しましたよ、ハル」
 あげはの家を後にした僕は、数日間町をさまよった。そうして何日か経ったある日、街中で霧ヶ峰先生と出くわした。
 「先生……」
 「もう知ってますか?上坂さんが……」
 「知ってるよ、僕が殺った」
 その言葉に、先生は首をかしげる。
 「やった……?それはどういうことですか?」
 「“殺した”って意味だよ。そんなこと言っても、先せ……黎姉ちゃんには分かんないだろうけど」
 霧ヶ峰先生……黎姉ちゃんはきょとんとした顔をするだけ。
 これが当然の反応だ。
 “殺した”という言葉の意味がわかっていないのだから。
 けれど、彼女の口から出た言葉は予想外のものだった。
 「うん?そんなことは知ってるよ。私が言いたいのは別のこと」
 あっけらかんとしたその物言いに、思わず数歩後ずさる。
 おかしい。
 黎姉ちゃんが、“殺人”を知っているはずないのに……。
 まばたきすらなく、表情を微塵も変えない黎姉ちゃんの顔をしっかりと見据える。すると、胸のうちに違和感が湧き上がるが、その正体を言い当てることができない。見れば見るほど、霧がかったような不気味な感じが胸中を支配していく。
 「誰だ、お前は……!?黎姉ちゃんじゃ、ない……!」
 僕の言葉に、そいつは満足そうに口を緩め、
 「凄いなあ。さすが“特異点”だ」
 意味の分からないことを言った。

 「君たちは毒されていたのさ。知らないうちにね」
 黎姉ちゃんの姿をしたそいつは、楽しそうに講釈を垂れる。
 「この世界も、大きな『世界』の一部だって言ったら信じるかい?まあ、信じる信じないは自由だが……。それでね、『世界』はある病を抱えているんだよ。本来持ち得なかった、凄まじく大きな病気を。君たちはその病気の影響をモロに受けてるのさ。だから“殺人”が起こらないはずのこの世界で、それを起こすことができる」
 「僕たちが狂ったのは、『世界』の病気のせい……?」
 「正しくは病を生む源、根源のせいだな。そいつは動くだけで『世界』のあちこちに“終わり”という名の病を振りまく。君はなんとなく気付いてるんだろ?この世界が、”終わり”に向かっているって」
 そういえば、あげはも同じようなことを言っていた。
 “死”に、“終わり”に向かう世界。
 「僕たちの、せいなのか?僕たちが狂って……歪んでいるからそいつを引き寄せたのか?」
 「いや、君たちのせいじゃないよ。君たちはそいつの振りまく病気にやられただけだ。あぁでも、君たちは“殺人”を行い、この世界の法則を破ったからねぇ。それで“終わり”が加速した可能性は大いにある。ま、そんなに気負うことはないよ。早いか遅いか、時期の問題だ。結果は変わらない。“終わり”が訪れないものなんて、ないんだからさ」
 そう言うと、そいつは指差しながら空を見上げた。
 空には雲ひとつない。だがそこに広がっているのは晴天ではなく、そこだけ切り取ったかのような大穴が幾つも広がっていた。
 「なんだ、あれは……」
 「“終わり”の初期現象だね。あれは世界が“終わり”を振りまく存在に食い千切られた後だ。あれが広がっていき、やがて世界のすべては終わりを迎える。そういう寸法だ。町に誰も出てきていないことに気付かなかったかい?みんなあれを恐れて家から出て来ないのさ」
 言われて見れば、街中だというのに人気が無さ過ぎていた。
 人の手によって作られた町並みの中に人の姿が全くないというその不気味さが、世界の終わりを体現しているような気がした。

 「ハル……っ!!」
 呆然としている僕の耳に、聞きなれた声が飛び込んでくる。
 「おぉっと、見つかっちゃったか」
 声の主は、黎姉ちゃんだった。その表情から、今度は本物だと確信する。
 そうだ、話を逸らされたが、こいつの正体をまだ聞いていない。
 「大丈夫ですかっ!?怪我は……してないみたいですね」
 息を切らしながら、駆け寄ってきた黎姉ちゃんは僕の身体のあちこちを確認する。一通り見て安心したのか、一息つくともう一人の自分の方へと向きなおした。
 「あなた、一体何者ですか!?ハルがコロスとかコロシタとか……どういうことです!?」
 「この期に及んでそんなことを説明しているほど、この世界に猶予はないねぇ。残念だけど」
 「私の姿でふざけたことを言わないでください!ハルに何をしたの!?」
 黎姉ちゃんが拳を強く握る。そんな風に怒る姿は、かなり久しぶりに見た。
 「私は何も。でも、彼に何かをした奴なら知ってる」
 「それは、いったい誰!?」
 「“終わりをもたらすもの”……または“神様の敵対者”、って言ったら?」
 「ふざけるのも、大概に……!!」
 黎姉ちゃんが偽者に詰め寄り、拳を振り上げた。
 その瞬間――。

 「……っ!!」
 地震。
 しかも普通の地震ではない。一気に地面に裂傷が走り、次々に大地が隆起する。僕たちは立っていられず、その場にしゃがみ込んだ。
 「始まったか」
 だが、偽者の黎姉ちゃんは物ともせずに立っている。
 「何なんだ……お前は……」
 凄まじい揺れに耐えながら、絞り出した言葉は地鳴りで殆ど声になっていなかったが、そいつには聞こえたのだろう。
 再び口元を緩めて、こう言った。
 「“這い寄る混沌”」
 そして僕らの意識は途絶える。



* * * * *



 まず、夢だと思った。
 周りは建物に囲まれていたし、それに押しつぶされる図が容易に想像できた。
 だけど目が覚めると私とハルは、倒れてきた建物をくり貫いて作ったような、不自然な空洞の中で横たわっていた。
 あの偽者が何かしたのかとも考えた。自分と同じ姿をしていたり、激震の中でも平然と立っていた奴だ。これぐらい、簡単にできそう。
 だけど、空洞のちょうど中央に立っていた人物は、“這い寄る混沌”と名乗ったそいつではなかった。

 蒼い髪の、青年。
 どこかの軍服のような、それでいて少し嘘くさい感じのする――だが端々から感じる高級感は本物の――深い紺色の服を着ている。
 その姿が少しぼやけて見えるのは、錯覚ではないだろう。
 「あなたは、誰?」
 思わず問う。
 「私は……君たちが言うところの“神様”に最も近い存在だ。お前たちの居た世界は、残念ながら私の仇敵によって滅ぼされてしまった」
 表情一つ変えず、その青年は寝ぼけたことを言う。“神様”を自称するなんて、胡散臭すぎるわ。
 「お前たちは、“這い寄る混沌”に見初められた。だからこうして生かしている」
 「あなたたち……私たちを担ごうとしているの?」
 私のその言葉に、やや眉を落としながら、
 「一世界の住人が『世界』のことを理解できるはずもない、か……」
 そう言って、
 「え?」
 いつの間にか目の前にまで迫っていた青年の手のひらで視界を覆われ、
 「――がッ!?」
 次の瞬間、暗闇に包まれた視界が強くフラッシュした。

 「お前に『世界』の真実を教えよう。その上で、私に協力して欲しいのだ」

 その声は最早耳では認知していない。
 頭の中に直接、入り込んでくる。

 (協、力……?)
 そう思った刹那、凄まじい濁流が身を包む感覚に襲われる。
 だけど身体は何ともなっていない。
 流れ込んできているのは、情報だった。

 『世界』の姿。――一冊の本。

 “神様”の正体。――恋人を求め彷徨う、喪失の騎士。

 “神様の敵対者”。――憎悪と憤怒の龍。

 “這い寄る混沌”。――外界からの来訪者。

 コロス……殺すこと。――私の世界にはなかったもの。

 コロシタ……殺したこと。――ハルたちがやったこと。

 ハルと上坂さんのこと。――二人を苦しめていた、歪み。龍によってもたらされた病魔。

 全てを呑み込んだ時、私の背は今までにないほどの汗で湿っていた。その場から一切動いていないというのに、息も切れ切れだった。だけど、私は、全てを理解でした。
 「ハルたちは……そいつのせいで……。そいつが、居たせいで……」
 「……そういうことに、なる」
 「私は、先生になったのに……。ハルたちの先生だったのに、知りません……でした……」
 ハルたちが抱えていたもの。
 たとえ聞かされていても、“世界の法則”のせいで自分には理解できなかっただろう。
 だからこそ、余計に無力感が募る。
 「助けられなかった……」
 「私も、同じだ。だから、お前の力を借りたい」
 「私の、力……?」
 青年は手を差し伸べる。
 「お前に世界を越える力を授ける。私はある場所から動けない。だから、お前には私の手足として動いて欲しい。この無力感を、払拭するために」
 私は、迷うことなく、その手をとった。
 「契約成立。この滅んだ世界の残滓……『終わりの園』で交わした契約、忘れるな」
 青年の姿がますますぼやけて、透明になっていく。
 見れば周りの景色も、そしてハルの身体も消えていく。
 「安心しろ。彼は私が別の世界で新たな生を受けるようにしている。お前がその気になれば、また会える」
 「ハル……」
 徐々にいなくなっていくその姿を、私は『終わりの園』で眺め続けた。
 胸に抱くは、怒り。
 ハルや上坂さん、私の生徒を、世界を狂わせた“そいつ”を、龍を、私は許さない。
 この怒りをもって、必ずいつか、龍を滅ぼす。

 そして私は、歩き出した。